昭和五十四年六月六日 朝の御理解 御理解 第七十五節 「人を殺すと云ふが心で殺すのが重い罪ぢゃそれが神の気感に かなはぬ眼に見えて殺すのはお上があって夫々のお仕置きに あふが心で殺すのは神が覧て居るぞ」
人間の心の中には可愛いと思う心と、人を傷付けたり殺したりするような、言うなら、仏と鬼とが一緒に同居しとる、と、こう言われます。人間の心の中にはね、恐ろしい心と、また可愛いと思う心が神心と言われる神心とが、同居しておる。
信心をさせてもろうて、段々、神心の方が強うなっていく、と、いうことが、信心だということになります。
もう、悪業の限りを尽くしたという、あの、お釈迦様と漢多羅ですかね、の、あの、お話にも出てきますように、それこそ、悪業の限りを尽くす程しの大悪人であっても、一匹の、言うならば、クモにでも可愛相に、と、思う心があったと言うことです。
ですから、その可愛いと思う心を、いよいよ育っていった人が、極楽行をするのであり、それに、それを努めようともしなかった人が言うならば、地獄におちる、と、いうわけでしょうね。それでも、たった一回の可愛いと思うてクモを助けたという、その功徳によって、お釈迦様が漢多羅を助けようとなさる。もう、これで漢多羅も助かることが出来るぞ、と、思った瞬間に、また、その血の池地獄にもどらなければならない、と、いったような心をおこしておる、と、いう話ですけどね。
私は、合楽が有難い、というのはね、もう本当に、ここでは神心をおこさずにはおれない。今日の、神の気感にかなわぬ、とありますね。
心で人を殺すのは、神の気感にかなわぬ。神の心にかなわぬ、と、いうだけぢゃなく、その感にかなわない。ね。所謂この、感じる、ということです。ね。
皆さんも、体験なさる事だと思うですけども、なら、どういう、例えば、無信心な者であっても、合楽に来てお話を頂いて、と、いうこともありますけれども、何かに、ふと、ふれる。その、ふれた時にですね、これは信心せにゃいかんなあ、これはまちっと本気にならなけりゃいけないなあ。何か、そういうものを感じさせる働きが合楽には、いっぱいある、と、いうことですよ。
ですから、私共のように、言うならば、ま、あさましい心をもっておっても、あさましい心が、段々影をひそめて、言うならば、神の気感にかなう心が、段々使えれるようになってくる、ね。その、神の気感にかなう心が使えれるようになることが有難いのであり、楽しいのであり、と、いうことになるんぢゃないでしょうか、ね。
それこそ、勿体ない、と、いうことになるんぢゃないでしょうか、それが、なら、現実、有難い勿体ない、という、おかげにつながることになる。 合楽には、そういう働きがいっぱいある。丁度、先日の梅の実会の日でしたが、丁度、一日の月次祭のビデオを皆で見せて頂いてました。丁度、終わった時に中島の上滝さん達がはじめて、今度三番目の此頃から嫁を貰っとりましたから、初めて同道で参ってまいりました。
丁度あそこの障子を開けて入って参りましたから、いやしもたね。
今日、ほんな、ま、ちょこっと早う来ると、あんたがこつば、むごうほめて、お話があっとったのに、と、私が言いましたら、いいや障子の向こうで聞きよりました、と、こういうわけです。あれがどうでしょう、私がいつも上滝さんの悪口ばっかり言うですもんね、皆さん・・。時に、もし嫁と同道で来とる時に、上滝さんの悪口ばっかり私がもし言うとったら、どういうことになるでしょう、ね。
あの中で、皆さんも聞かれたように、ね、それこそ、嫁と私、私と九十いくつになる母親、その私の母と嫁のかかわりあいの、その素晴らしいことに有難いことに、此頃、それこそ、水ももらさぬようなおかげ頂いておる、その様子をお届けいたしました。そういう例えば、真(シン)からのおかげを頂くようになったら、もう、形の上に、経済の上に、周囲の人間関係の上に、も、何とも言えん働きがおこってきた。 それが丁度、私がここのご造営が始まる、と、いうことから、月々御造営費のお供えをさせてもらう、そして親先生にお届けして、これだけは私のいきておる限り、一生続けさせて頂きます、と言うて、お届けをして、それを実行し始めた頃から、そういうおかげになって来ておることに気付きました、という、そういう話であった。
それで、私が、これは上滝さん、あんたが一生、私が生きとる間といわずに、一つ今日からは、ね、これを嫁に伝えなさい。また、嫁がまた次の嫁に伝えるでしょう。上滝家のある限り、言うならば合楽建設と言うのは、合楽のある限り続くことだろう。世界万国に広げていかんならん、と、いうのだから、建設はもう限りなく続くことであろうから、上滝家の続く限り、合楽の続く限り、これだけは一つおかげ頂かんの、と、ね。今、あんたの話を聞いておると、結局、中村さんぢゃないけれども、お供えは、言うならお参りのしもうけ、お供えのしもうけ、と、言う実感を感じております、と、いう。 自分でお供えしよるとぢゃない。神様がお供えさせて下さる、そういう働きがおこってきておる。それが、なら、人間関係の上にも、経済の上にも、もうとにかく私の家の上では、まず、私と嫁とが、本当な意味においての、有難い交流、私と母、また母と嫁との間にそういうかかわりあいが生まれてまいりました、ということが、考えてみると、こういう事を一心発起したところからおこっておるというお届けをしたんです。その月次祭の日に昼、晩にまいられんから、と、言うて昼参ってきて、そのお届をした。その話をしておるところを、丁度聞いたわけ、ね。 もう、いやが上にも、心を生かさずにはおかん、ね。これは本当に、私一代と言いよったばってん、これだけは嫁ごに伝えて、お供えは自分でするとぢゃなかばい、その気になれば、神様がさせて下さるばい。これは上滝家のある限り、これをいっちょ続けようぢゃないか、と言うような話にもなってくるというものです。そういう心がおこる、ということ、ね。そういう働きが合楽にはあってるんです。
夕べ、壮年部会で、お話した事でしたけど、皆さん、ごらんになったでしょうか。ごらんになっとらんなら、帰りがけ見て行って下さい。そこの、脇殿の大襖の向こうには、私がお話をしたテープがもう天井までつかえるごと、いっぱい、いろいろの、悪くならないようにね、きちっとボール箱につめて、それを包装してあって、そして、これが何年何月から何月までの、と、づうっと書いて、永久に残す、と、言うような事がなされておるわけです。それを全部、整理整頓して出来あがった。ね。本当に合楽の場合は、こういう事を残さなんならんとか、と、言うのぢゃなくて、あれが残っていっておる、ということは、素晴らしいことだ、と、いう話を昨日させて頂いた。
教務所だよりの、今度のそれに、その事が書いてあるです。お互いの教会でそういうものが残されたり、保存されたりしておるだろうかと、ね、出来てない。なら、合楽の場合には、それが、それこそ、たくまずして出来ておる、と、いうわけなんです。
ここに積み上げる時は、その辺から、ここまでずうっと、ここに積み上げました。そりゃもう、ちょっとトラックに積まなんごと、沢山、ね。
大変なことだな、と、思うのです。成程、この教典が金光大神の信心の内容として、皆が研修するようになったら、それこそ、お釈迦様の教典よりも、ね、キリスト教のバイブルよりも、もっと素晴らしいものになるだろう、と、いう話でした。そのことが始まったのは、福岡の秋永先生ところの奥さんの弟ですよね、杉山三男さんと言います。
もう最近は、ほとんどお参りはしませんのですけれども、テープのお供えだけは持ってくるんです、ね。
それが丁度、あそこをかたづけておる時に、その日なですね、三男さんがテープのお供えもってやって来た、という。
「こりゃ、もう杉山さん、あなたのお供えがこういう大変な事になっている。これは、もう永久に合楽のある限り残っていく事であろうが」と、いう事であったので、非常に三男さんも感動した。いくら無信心な者でもね、も、これは本当、これは三男さんがおかげ頂くばい、と、言うて、も、丁度、それを、出来上がって積み上げているところへ、三男さんがね、それをもってやって来た、という。
これなんかでもね、もう助けずにおかん、生かさずにおかん、もう、悪か心だん使われん、と、いうような働きがここではいつも、あっておるわけですよね。
確かに、人間の心の中には、それこそ、仏と鬼か蛇か、と、思えるような心とが同居しておる。ね。その鬼ぢゃろうか蛇ぢゃろうかと、いう心が出た時が相手を傷つけたり、いわば、相手の心をグサグサに切りきざむように、殺したりする時である。かと言うて、んなら、私共の心の中にはね、それこそ漢多羅な心の中にですら、可愛いという、ね。その前の七十四節は「可愛いと思う心が神心ぢゃ」と仰る、その可愛いと思う神心が誰の心の中にでもあるんだ、ね。
「神様がおかげ頂かせずにはおかん、助けずにはおかん。」と、いう、合楽ではそうい働きがいつもあっておるのですから、私共がその気になったら、もっとそれを、言うならば緻密に受け止める事が出来るだろう、と、こう言うのです、ね。人を、勿論、意識して傷つけることがごだいます、ね。又ハ、殺すような事をすることがございます。本当に、うかつな事がございますですよ。
私は先日、竹葉会の、ぢゃなかった、梅の実会の時だったでしょうか、こちらえ出て来るまえに手洗いに入りました。手洗いの網戸越しに、泉水のところで子供どんが三人で砂利を拾うてから泉水の中に、こうこうやってから入れよりますもん。投げ込みよるような私が眼がうすいけんはっきりわからん、そげんしょうごたるから、私が便所の中から「そげなことしたらでけんぞぉー!!」と、私がおごったわけです。そしたら、そこに秋山さんがおんなさるとです。
「娘がここに来とりますもんですからね、子供連れて来とるけん。」、子供の守にいつも連れてくるわけです、ね。
「親先生にも似合わん声を出しなさった。」と、秋山さんが思うただろう、と、こう思うです。私は家の孫達とばっかり思うとるもんだから、その、えげつのう、「そげなこつでけん。」と、怒ったわけです。そしたら秋山さん方の孫だったことが、秋山さんがそこにおんなさる。
秋山さんな、ほんに、そげんところがありますもんね。とても、子供が障子破りよったちゃ知らん顔をして(笑い)、それだけ心が大きいとですよね。ところが、私が便所の中からおらんだものだから、私は、何か、それこそカツッとはくるまいけれども、淋しい思いがしたのではなかろうか、と、おもった。「あげな、えげつない声を出しなさらんでんよかろう、とこれ。」と、おもたぢゃろ、とこう思うです、ね。
それから私は、手洗いをすんでから、まあ、それこそ、ことわりの意味あいでコーラなっと持って行ってやろ、ち、思うちからね、持って行った時にはもうおらんとです、ね。そして、なら、今度は、いよいよ私が、美登里会が始まったから、一番口に見たら、あそこの娘達が二人いつも来るとがおらんですもん、「あいた、腹けち帰ったぢゃろうか。」と、おそらく腹かいて帰ったわけでもないでしょうけれどもね。
こげんとは、もうそれこそ、うかつにして人の心を殺す事があるんです。これは、私が眼がうすかから、そういうことになったわけでしょうけれどもね。
それは、例えば、そういうふうな、私が言うてもですよ、なら、秋山さんが殺されるような人でもなからなければ、傷つくような人でもないでしょうけれどもですよ、私は、その時そういうものを、スラスラ、と、わずかなの時間に感じたんです。
たとえば、自分の孫でぢゃこれから、あげなふうな声は出すまい、と、私はこう思うたです、ね。
それがね、こっちさん来てから、そこに、なら、まだ泉水の所で二人があそびよるけん、私がコーラを持っていく間におればね、私も、まだ、気が楽ぢゃったわけです。
したら、こちらに来たら、本当に孫もおらなきゃ娘もおらんとです。「もう、早う帰ろうの、先生から怒られたけんで。」と、言うたっちゃなかろうか、と、まあ、私が思うたわけですよ。ね。ま、そりや実際は、そうぢゃなかったかも知れませんけれどもですん。
うかつにして、やっぱり、その、自分げん孫ぢゃから、自分方の家だから、と、いうこともなからなければ外もない。結局そげな、言うなら、声は出してはならない、と、いうことです。
だからおかげで、私は孫達にでも、あげな怒り方はこれからせんごとなるでしょう。ね。
それこそ、何と言うでしょうかね、意識せずに人を傷付けたりするような事がある。態度ででもそうです、ね。又ハ、その、意識をしてから、もう人間、何か腹のたった時なんかですね、もう、相手の心を傷つけるようなこつを言いたい、どげん言うたなら腹かくぢゃろうか、と、思うて考えよる。そういう、なら、私共もそういう時代があったけれどもね、おかげで意識してからは、そういうものはさらさらない。
もう、人が助かることばっかりしか思わない。けども、んなら、私でも無意識に人を傷つけるような事がですね、あって、はっと、神様にお詫びをさせて頂いたり、それが、言うなら、「親先生がおごんなさったけん、もう、早う帰ろうの。」と、言うたてどんおるならば、「これは本当に、秋山さんの心におくりあわせを願わんならん。」と、思うて、改めてお詫びしたりした事でございましたけれどもね。私共の心の中に、やはり「鬼か蛇か」と、いうような心があるから、うかつにして出てくるわけです、ね。それを私共が、おさえるとか、改まるとか、私は無意識のでもそういうことがないように、これから注意することでしょう。
人を傷つけたり殺したり、と、いうことはね、「神が見ておる。」と、いうからこわいのです、ね。
だから、それと反対に、「可愛いと思う心が神心」と、どう心を、言うならば、「いつも使えれる私になる。」と、いうことは、神が見ておる、と、いうことにまた、なるわけです。
これは、おかげの受けものが無意識に、又ハ、意識してどんどん心の中に神心が育っていく、また、育てていく、と、いう精進ができることにもなるわけですよね。
「 どうぞ 」